2010年5月19日水曜日

ボブ・シーガー ロックがすべて

引越作業とは、時に思わぬ幸運を運んでくれる。探していた本が突如出てくるのは嬉しい限りだ。反対にあったものがどこかに紛れて出て来ないという残念にも出くわす。 出て来たのは『アメリカン・ビート』という本、行方不明になったのはエルヴィス・プレスリーのCD『GOOD TIMES』

俺は古いロックンロールが好きなのさ
俺の魂を癒してくれる
俺を過去の遺物と呼ぼうが
時代遅れと呼ぼうが
下り坂と呼ぼうが
俺の魂を癒す古いロックンロールが好きなのさ
(オールドタイム・ロックンロール/ボブ・シーガー)

 ボブ・シーガーをご存じか?<アゲインスト・ザ・ウインド>という曲を、エルヴィス・プレスリーがもういない80年初夏にビッグヒットさせた。『奔馬の如く』の邦題のアルバムタイトルでリリースされた。

 エルヴィス・プレスリーとはまたひと味違うプロレスラーのような風貌の、それにしても<アゲインスト・ザ・ウインド>・・・そのタイトル通りに”今でもまだ風に向かって走っているぜ”ピアノの音、印象的なリフレインがストレートな男の心情と一体になって疾走、ココロを揺らす曲だ。イーグルスのメンバーがバックコーラスに参加していた。当時あまり音楽を聞かなくなっていたが、この楽曲はよく聴いた。

ここで彼をとりあげたのは、全米約150紙の新聞に掲載されているコラムを書く、ボブ・グリーンがボブ・シーガーに触れていること。その記事は『エスクワァイア』誌に書いたコラムを集めた書籍『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』に掲載されたものだが、それがエルヴィスに関するコラム2本と連なって書かれていること。そしてその記事が、連なっているせいなのか、妙にエルヴィス・プレスリーの匂いを含んでいるからだ。

 因に『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』は音楽についてのコラムを主としたものでないが、この本にはエルヴィスの名が出てくるものが全部で4つある。今回はボブ・シーガーについてのものと、『エルヴィスが笑っている』をピックアップ。次回は『エルヴィスが死んだ日』ともう一本をピックアップしたい。

 サブタイトルのベスト・コラム通り、全編すぐれたコラムが満載だ。

 『奔馬の如く』アゲインスト・ザ・ウインド/ボブ・シーガー ロックがすべて

 デトロイト・コーポ・アリーナ、音のこだまする広大な空間。ボブ・シーガーがステージ前方に進みでた。ギターを手にした彼は、『メイン・ストリート』の出だしのフレーズを歌いはじめた。「真夜中の街かどに立っていたのを覚えている/勇気をふるい起こそうとして…・:」

 声が遠くまで届かない。土曜日の午後遅い時間、音響装置のテスト中だ。マイクロフォンの調子が悪い。あと3時間もすれば、アリーナは2万人以上のファンで埋めつくされる。だが今はまだホールの入口には鍵がかけられ、シーガーの声を聴く聴衆はひとりもいない。

ステージから数メートルのところまでしか声が届かないので、さらに二、三小節歌ったところで彼は歌うのをやめた。そして、何千席もの空席を見わたした。今夜、ついに彼は故郷に錦を飾ろうとしていた。中西部の小さな世界の外で名を成そうと15年間下積み生活を送ったあと、シーガーのアルバムはアメリカで売上ナンバー・ワソになった。6日間連続のコーポでのコンサートのチケットもすでに売り切れていた。7万5千人近いファンが、ミシガン南部出身の35歳のロックンローラーの歌を聴くために、ひとり最高1000ドルを支払っている。

 シーガーは二階正面席を見つめた。彼の後ろではパックを務めるシルバー・バレット・バンドが『メイン・ストリート』の演奏を続けていた。が、シーガーはそれ以上歌わなかった。じっと遠方の座席を見つめている。しばらくすると、純粋な喜びの微笑が彼の顔中に広がった。

 人はだれでも夢を抱いて大人になる。1940、50年代、アメリカの少年たちは野球選手になることに憧れた。しかし、50年代も終りに近づくと、少年たちの夢はロックに変わった。新しい世代はエルヴィス・プレスリーに、ビートルズに、そしてローリング・ストーンズになることだけを夢みたのだ。地元でパンドを作り、学校のタソス・パーティや故郷の町のクラブで演奏してその夢を追い求める者もいた。だが、せいぜいそこまでだった。そこまでなら子供の夢にすぎない。20歳、悪くても22歳までにロック・スターになれなければ、あきらめてまっとうな仕事を探す。いつまでも子供のままでいることは許されない。

 が、ボブ.シーガーはやめようとは思わなかった。状況を冷静に判断すれば、どう見ても彼には成功する見込みはなかった。早く同世代の人間の仲間入りをしろと周囲の状況は語りかけていた。すでに同世代の人間はピーターパン信仰を捨て、現実的な仕事に精を出している。今ではもう、人気が沸騰しつつある新しいグループの名前さえ知らないことがままあるのを認めざるをえない世代なのだ。

20歳のとき、シーガーはロック公演のドサ回りに出ていた。25歳のときもそうだった。30歳になってもそれは続いた。車で旅を続け、年間265回も夜のコンサートをこなす年もあった。それだけやっても、ミシガン、イリノイ、オハイオ州以外の地域ではだれひとり彼のことになど関心を払わなかった。それでも良い年は、6600ドルぐらい懐に入ることもあった。

 バーやナイトクラブで演奏した。有名なグループの前座を務めることもあった。気がついてみると自分より若い連中の前座を務めていた。声も、ウィスキーと煙草で年を追うごとにかすれていった。バンドのメンバーも変わった。所属のレコード会社にも彼の将来に関する展望はなにひとつなかった。相変らず巡業が続いた。高校時代の同級生はそれぞれ現実的な世界に身を置いて、それ相応の地位を築いている。そしてその前途は洋々たるものだった。ミシガン州アン・アーバー出身のボブ・シーガーだけが、ロックを歌いつづける、大の大人になっていた。

 おそらく、十代のころの彼を知るかつての少年たちは、ロックのファンがすでに自分より20歳も若くなっていることに気づいたときのシーガーの気持ちに思いをはせるにちがいない。いつになったらこの先もう状況は変わらない、と諦めるのだろうかとも考えるだろう。

 そして、40歳に手が届きそうになってから、いよいよ最悪の事態を認めざるをえなくなり、仕事を求めて履歴書を書くはめになったときのボブ・シーガーの胸の内を思いやる。ところが、1980年、状況が変わったのだ。

ついに---ほとんど魔法のように---シーガーの人気に火がついたのである。レコード購買層はニューヨークの孤独にもロサンゼルスの軽さにくみも倦きたらしい。ボブ・シーガーはそのどちらにも与したことがない。彼は、車の後部座席で過ごした夏の夜や小さな町で味わう孤独、そしておそらくは彼の顔も肌ざわりもとっくの昔に忘れてしまったはずの少女たちがかつて自分に語った言葉を歌う、典型的な中西部のシンガーとしてとどまっていたのだ。

 この夏の初めまでに、彼のアルバム『アゲインスト・ザ・ウインド』は、6週間にわたって『ビルボード』誌チャートの第1位の座を独占した。アルバム売上 250万枚、総売上にして2000万ドルを超えた。全米ツアのコンサートのチケットも全部売り切れた。彼がミシガンの少年時代の賛歌を口ずさむと、15歳のティーンエイジャーたちが頭上に両手をかざして拍手を送った。

夢は実現した。だが、それは遅れでやってきた。遅れてやってきたその夢は、彼が期待していたほど心地よいものだっただろうか。待ったかいはあったのだろうか。シーガーは、世間の冷たさにひと一倍敏感な傷つきやすい男だ。にもかかわらず、15年間、だれひとり自分を顧みてくれなくても、妥協することを拒否してきた。そして今、ついに世の中が彼の声に耳を傾けている。今になって自分に群がってくるファンを見て、彼の脳裏をどんな思いがよぎっているのだろうか。

 「伝えるものはあるといつでも思っていた」とシーガーはいう。「ウンザリさせられたことは何度もあった。こっちがどこかそこいらのクラブで演ってるっていうのに、ほかのパンドはどんどんビッグになっていく…・でも、いつも自分に言いきかせていた。週に5日クラブで演れるだけでもたいしたもんじゃないか、と。少なくともそれぐらいはやっていけるという自信はあった。歌はかなりいけるんだ。バーでの演奏ならいつまでだってできる」シーガーと私はふたりだけでコーボの楽屋でビールを飲んでいた。6日間連続のコンサートの3日目の夜が1時間前に終わった。シーガーはいま楽屋で裸足になっている。褐色の髪が肩にかかる。髪には白いものがまじりはじめていた。がっしりした体格の男だ。半袖のシャツから太い腕がむきだしになっている。GMの組立ラインの作業員だといっても十分通じるにちがいない。話すときも、アメリカ中のラジオから聞こえてくるその歌声と同じように、いつもざらざらした声で話す。

 中西部で過ごした少年時代を歌った大ヒット『メイン・ストリーム』や『ナイト・ムーヴス』に出てくる不器用な少年のように、彼もまたはにかみ屋のようだ。自分でもそのことは認める。見たこともないような美人に出会うと、今でも言葉につまってまともなことはなにもいえなくなる、という。人のたくさんいる場所で注目の的になると、どうにも居心地が悪くて「逃げだしたくなる」ともいう。

だが、その彼も、ミシガンからはけっして逃げたさなかった。ロサンゼルスやニューヨークは自分を呑みこんでしまいそうで怖かった。「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」彼の夢も、普通の人間の夢と同じように始まった。

ラジオから流れてくる歌を聴きながら鏡の前でスター気取りをしてみたのだ。「だが、それができたのは、母親が家にいないときだけだった。だれかほかの人間が家にいると恥ずかしくてダメなんだ」それではなおさらのこと、なぜその夢は彼をつかんで放さなかったのだろうか。同じ夢を抱いたほかの者はとっくの昔にあきらめてしまったのに、なぜ彼だけが最後までそれにしがみついたのだ。

「生まれつき、頑固なんだ。それに、ものすごく孤独を感じていたからな」とシーガーは胸のうちを語った。「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」

 「ずいぶん長いあいだ、まわりの人間は、いつか必ず成功すると俺を説得しつづけた。毎年毎年だれもかれもが『いつか必ず出番がくる。いつかは必ず』と言いつづけた。だが、そんなことをいわれてもよけい虚しくなるだけだった。状況はちっとも変わらなかったからだ。俺に残された最後の手段は、やつらの言い草に耳を貸すのをやめることだった。もうだれも信じられないというところまできていた。出番なんてこないことはわかってた。俺はその思いを飼い慣らして生きてきたんだ。で、今……こうなったってわけさ」

 なんの満足感ももたらさない仕事をする人間の運命を、彼は怖れていた。が、理解はできる、という。「きっとある日、観念するんだ。『これが限界だ。もういいかげんに、長く緩やかな人生のうつろいに身を任せたほうが賢明だ』と」。徐々にゆっくりとうつろっていくという亡霊はいつも彼の頭から離れなかった。ようやく行けるところまで行きついたのに、なにかを生みだすことも伝えることもできなくなっている、そんな自分の姿が目の前にチラついた。

「俺は自分に問いかけている。おまえは35歳になった。金も稼いだ。それでもまだロックを続けられるのか、と。凍てつくように寒く暗い夜なんかに、自分にとってかつてはごく自然だったことで生計を立て、いつになっても子供のゲームをやめようとしない大人の姿がよく脳裏をよぎる。いったい、いつどんな形で納得してやめられるのか?」

 「会場では若者たちの姿が目に入る。一見、コンサートを楽しんでいるように見えるが、あれはただばかでかいギターが鳴り響くのを聞いて本能的に興奮しているだけなんだ。そんなことぐらいすぐにわかる。ソングライターとして俺は言葉を慎重に選んでいるが、ガキどもはドラムのビートのことしか頭にない。俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」

 「いつまでやれるかって?アル・カリーンのようにありたいね。彼はまだ3、4年は野球を続けられることを自分でもよく知ってたのに、自分からやめるといって引退した」「15歳のガキが45歳になった俺のことを見たいと思うとは考えられない。自分にはあと2年やってみて様子を見書といっている。もっとも32歳のときから同じことを言いつづけてるがね。だがいずれ、もうこれ以上はやらないと決心するときにも、これだけは自分にいえると思う。俺は自分のやってきたことが好きだった。かなりのレヴェルに達したとも思う。そのことで恥ずかしい思いをしたことは一度もなかった、と」

 話をしているうちに、夜は更けていった。話はいつか身近な話題に移っていた。彼は、これまでつぎからつぎに曲を書いてきたおかげで、かなり親近感を抱いている人間にさえ手紙が書けなくなったといった。「いつもそのことで負い目を感じていないでもすむと助かるんだがね」そういって彼は笑った。テレビに出たいと思ったことは一度もないという。こちらがどんなメッセージをもっていようともカメラがそれを殺してしまう、と思っているからだ。「トーク番組に出ることになっても、なにを話したらいいのかわからない」と彼はいった。「自分の人生を8分間で説明しろなんていわれてもどうしたらいいかわからない。

昔、レノンとマッカートニーが『トゥナイト』に出るってきいたときのことは今でも覚えている。あのときはホントに興奮して、それを見るために寝ないで待ってたんだ……その晩はジョニー・カーソンは初めからいなかった。彼は休みで、ジョー・ガラジョーラが臨時の司会者だった。番組が始まると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがガラジョーラ相手に無理してジョークを飛ばそうとしてるんだ。見てて悲しくなったよ。俺にはあんな真似はできそうにない。俺が自分らしいと思っているすべてのことが馬鹿らしく思えてくるような気がするんだ」

 ぽつぽつ家路につくシルバー・バレット・バンドのメンバーが、部屋に入ってきて挨拶していった。シーガーは手を振ってそれに応えた。夜はかなり更けてきていた。もうアリーナには管理人しか残っていない。だが、シーガーはまだ動こうとしなかった。疲れてはいたが、耳元ではコーポの12000人のファンの歓声がまだこだましていた。楽屋に残って話を続けていれば、その夜を永遠に続かせることができるような気さえしていたのかもしれない。

「ミシガンの北のほうに丸太小屋を持ってるんだ」と彼がいった。「ときどき、髪を後ろで結んでパーまで歩いていく。そこで、年寄り連中といっしょにテレビの前に座って、声を張りあげてデトロイト・タイガーズを応援する。みんな俺がだれかなんて知らない。ありがたいよ。前はいつだってそうだったんだ。俺はごく普通のそこいらにいる男にすぎないんだからな」

 ようやく、シーガーと私は帰ろうとして立ち上がった。出口に向かうとき、シーガーの手には新しいビールが、私のほうにはもうひとつきいておきたいことがあった。15年かけてようやくビッグになった今、彼の夢はまだ醒めていないのだろうか。これほど.長いあいだ執拗に成功を追い求めてきたあとで、彼にとってその婆は想像どおりの心地よいものだったのだろうか。

 「そりゃそうさ」とシーガーはいった。「そのとおりだ。最高だよ」シーガーと私は人気のない廊下をアリーナの出口にむかって歩いた。ふと、彼が立ち止まった。

 「いや」と彼はいった。「さっきの答は本心じゃない。じっさいは考えていたほどいいもんじゃなかった。こんなもんだとは思っていなかった。そんな気がするよ」彼は車のほうへ歩いていった。彼の足音が人のいない駐車場にこだました。ミシガンの少年は、今、ドサ回りを終えて、故郷に帰ってきた。

(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)


 このコラムのすぐ後に『エルヴィス・プレスリーが死んだ日』が来て、続いて『エルヴィス・プレスリーが笑っている』がある。ここでは『エルヴィス・プレスリーが笑っている』を引用する。

 さて、ボブ・シーガーに触れた『ロックがすべて』の文中にある以下の部分

 「俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」

 エルヴィスもそんな気持ちでなかったのだろうか?そしてまた「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」

 これも同じ思いでなかったか?違う点はエルヴィスは幸運にもサム・フィリップスに出会い、またたく間にスターダムを駆け昇り「キング」になったことくらいだ。もしサムに出会うことがなければ、諦めて電気技師になるために勉強をしたかもしれない。あるいはクラブでバラードを歌いながらドサ回りしたのかも知れない。


 ボブ・シーガーの言葉。

 「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」

 エルヴィスも同じ思いでなかったか?ロッキー山脈の風が吹くアメリカの西部。コロラド州デンバーの町はずれ。スーパーマーケットでは銃が販売されている。斜めに傾いたトラックが夜道をガタゴト走って行く。真っ暗闇にコンビニが一件。それから車で闇を数分、暗闇に灯り、人が集まったバーがある。オーナーの娘であるマライア・キャリーそっくりの女が店をとりしきる。バーの小さなステージには続々と男たちが上がって歌う。

70年代エルヴィスが自然な感性でに歌っていた”カントリー”のココロに通じる”分かってほしい気持ち”を様々な楽曲に折り込みながら、国は変わっても” 艶歌”なのだ。それをひしめきあう男たちが耳を傾けヤンヤの喝采を送る。

”マライア”は次々に心のバンバーやドアの把手が壊れた男たち、たまに女を紹介し、司会する。誰にも笑顔が溢れているが、ココロの隅には水溜まりがあるのが、誰の目にも明白だ。誰でもいい、俺がここにいるってことに気がついてくれる者がいるかも知れない。赤い土、険しい岩肌、高速で走るクルマ、荒っぽさにも失わないブルームーンのような柔らかな気持ち。

「ここにある笑顔を忘れないでほしい」と老いた黒人がボクに語りかける。人種を超えて歌い飲む。 <シー・ウェアズ・マイ・リング/SHE WEARS MY RING>そしてこの曲もそんな場所で好まれそうなポリシーがある。決意に応える決意する声。人間のもろさを知った声だ。決意に応えてそれで十分じゃないか、この上、生きるのに何がいるんだい。という声だ。

2010年4月25日日曜日

約束の地



約束の地

チャック・ベリーの<約束の地>を収録したアルバムがあります。
タイトルは「約束の地」。1975年1月にリリースされました。
シングル盤は、アルバムに先行して1974年10月にリリース。ヒットチャート14位にランキングされました。

録音は73年12月10日に「グッドタイムス」に収録された<フィーリン・イン・マイ・ボディ>と共に メンフィス・スタックスにてノリノリ、ギンギンスタイルで。


考えてみると、70年代に地位も前も確立し、円熟期に入った時期に、他人のヒットソングを、そのまま アルバム名にする「おおらかさ」は、いかがなものかと思います。
自分に自信があることは分かりますし、出来栄えも見事な傑作だと思います。
チャック・ベリーへの畏敬の念?理由は知りませんが、どう考えても不思議。
多分、気にしていなかったのでしょう。いずれにしても「スゴイ!」と思います。


 バージニア州はノーフォークの故郷を離れ
 目指すは一路カリフォルニア
 グレイハウンド(バス)に飛び乗りローリーを抜けて
 ノースカロライナ州を横切った

 アラバマ州も中程で
 エンジントラブル発生だ
 バスの故障で立往生だよ
 バーミンガムのダウンタウンで

 汽車の切符をすぐさま買った
 ミシシッピー州を横断するヤツさ
 バーミンガムから夜行に乗って
 ニューオーリンズヘまっしぐら
 ルイジアナ州から出るのに手を貸して
 ヒューストン(テキサス州)まで行きたいんだ
 そこにはオイラを大事に思い
 歓迎してくれる人たちが住んでいる

 着くやいなやシルクのスーツに
 スーツケースまで持たせてくれて
 気がついたらアルバカーキー(ニューメキシコ州)の上空を
 ジェット機で約東の地へと向ってた

 ★Tボーンステーキ・アラカルトに食らいつきなから
 ゴールデン・ステート(ヵリフォルニァ州のあだ名〕ヘー飛び
 ちょうどその時パイロットが言ったよ
 あと13分でゲートに到着しますと

 ☆着陸寸前、ゆっくり降りろよ
 ターミナル・ビルまで滑るように走れ
 エンジン切ったら翼を冷ましな
 そしてオイラに電話をさせとくれ

 ◆ロサンゼルスの交換台、バージニア州はノーフォーク
 8433・928・374の1009につないでおくれ
 故郷のみんなに伝えて、約束の地にいる
 貧乏人の男からだと

 くり返し★

 くり返し☆

 くり返し◆

       
                  川越由佳氏 翻訳           
 BMGファンハウス
 「ロックンロール / エルヴィス・プレスリー」(BVCM-31035)より



 
ロックンロールの登場は事件でした。
エルヴィスに与えられたキング・オブ・ロックンロールの称号は、その圧倒的な存在感への畏敬の念に他なりません。

ロックンロールはテネシー州メンフィスのサン・スタジオで生まれました。
「異論あり」の声は当然あるでしょうが、ルーツはともかく、ロックンロールは白人ゆえの音楽です。
でも白人の音楽という意味ではありません。

Wop-bop-a-loom-bop-a-lop-bam-boom
Tutti frutti,ah rutti
Tutti frutti,ah rutti

リトル・リチャードの<トゥッティ・フルッティ>、エルヴィスの<トゥッティ・フルッティ>、パット・ブーンの<トゥッティ・フルッティ>は、いくら当人らが同じものだと主張しても、別物にしかならないでしょう。

 
すべての音楽が人種で切り分けられるほど単純でないことは、1956年のアメリカ映画と2005年のアメリカ映画を比較すれば分かります。
肌の違いはあっても、人はそれぞれに、文化的にも、肉体的にも、地理的にも、
たっぷり時間をかけてゆるやかに変化し続けてきたのであって、同時に未来を示唆しています。

ロックンロールもそのひとつで、ロックンロールはテネシー州メンフィスのサン・スタジオで生まれました。
ロックンロールの原型になり得る、白人で、ありながら黒人なみの生活環境で育つしかなかったエルヴィス・プレスリーという男の身体に凝縮された心の自然な発露があったからです。
ビル・ヘイリーの<ロックアラウンド・ザ・クロック>などもありましたが、パーフォーマンスが本質的に違いがることは明白です。

つまりエルヴィス登場は社会の必然でした。
それゆえ社会は、エルヴィスを事件として受け入れる以外にありませんでした。
アメリカに誕生したロックンロールが死んだのは、エルヴィスがエド・サリバンのTVショーに三度目の出演を果たし、<谷間の静けさ>を歌った日のこと。まるで、逆踏み絵のように。
 

時を同じくして、数人のロッカーたちが消えました。
残ったのは軍隊に入れられたエルヴィスと、監獄に入れられたチャック・ベリーだけ。
ゆるやかな歴史の断片のひとつは引き出しにしまいこまれました。
特に日本人はその引きだしをあけようとはしないようです。 

エルヴィスは、批判されても、称賛されても、事件の当事者そのものでしたが、
「キング・オブ・ロックンロール」という巨大なポップ・アイコンになりました。
 
同時に、音楽的ジャンルに関係なくエルヴィスが歌うものは、すべて「キング・オブ・ロックンロールのロック」になりました。
自分のカヴァーあるいはパロディを演じることでしか、エルヴィス・プレスリーを続けることは不可能になったのです。
その点で、エルビス映画は特に際立ったもので、すごくユニークな素材です。
情念の後始末を10年間もしているエルヴィスの姿は、ストーリー、風光明媚なロケ地、サーキット場、セクシーな女の子より、はるかに劇的です。
 
ロックンロールの死から数年、まるで騒乱罪で映画に収監されたキングに代わるかのように”遅れてきたロックンローラー”ビーチ・ボーイズが、本当に入獄したチャック・ベリーのイントロを借用して、サーフィン・ミュージックをヒットさせました。
ポップス新世代の活躍が始まりました。

アメリカの女の子は、「エルヴィスは死んだ」とプラカードを持ってビートルズを迎えました。
彼女たちが念を押さずとも、すでに「ロックンロール」は墓の中でした。
それにしても、ビートルズはロックバンドだったのでしょうか?

1964年、相変わらず、エルヴィスは「キング・オブ・ロックンロールのロック」を歌っていました。
ロックンロールは再定義されることが必要でした。
そして遅れてきた評論家によって、遅れてきたロックンロールがベトナムの戦火で焼き直され、再定義されました。
ロックンロールは遠く離れたアジアから響いてくる機関銃の轟音にかき消されない電気仕掛けの蛙のような気がします。
土に落とした涙と共にあったロックンロールは、電気コードが入り乱れたスタジオの中に移動しました。